2014年2月10日月曜日

「対の思想」ってなーに?

駒田信二という中国学者がいて、いろいろな本を書いたそうだけれど、自分は『対の思想』をパラ読みしたに過ぎない。しかもそれほど感服したりひざを折ったりするわけでもない。だからかれのよい読者とはいえなのだけれど、ただ、「対の思想」ということに注目したのはさすがですと軽微に敬服する。

引用:
ここで私は〈対〉ということを考えてみる。松柏、花鳥などという並立的な対ではなく、是非、善悪、美醜などのいわば対比的な対である。たとえば、善と悪とを対立させたとする。そのとき、対立させた善は、あくまでも善として、内包する他の要素を認めることをいさぎよしとしないのが、日本人の大衆一般の好みなのである。

「武士道は死ぬことと見つけたり」という。そこには死に対立する生は考えられていない。強いていえば、死が即ち生だということになる。そこには対の思弁はない。だが、中国の〈対の思想〉はそうではない。対立させた善と悪とは、同じ比重において眺められるのである。そして、その善と悪とのそれぞれのなかにさらにまた善と悪とを見る。そしてまた、その善あるいは悪のなかに、さらに対を見る。いさぎよいことを好む日本人の大衆一般は、このような思考のくどさ、ねばり強さを好まない。


(漢字、仮名遣いに一部変更あり。インデントができないので青字をして引用分であることを示す)



たとえば、水滸伝の登場人物はただのいい人というのはいなくて、だれもが二面性を持っている。そしてそれが人間を描写するということだくらいに作者は思っていたはずだ。それにくらべると、里見八犬伝なんかの登場人物は、すごい人はひたすらすごい人であり、それに対立するようなもう一面など一切描かれない、ということを引き合いに出して、両国の人間観=世界観の差異を指摘する。

思考のみならず、建築、漢字、現代漢語なんかにも「対」、あるいは二面性、あるいは対称という問題が基底にあると思える。たとえば、故宮なんかは左右対称だし、漢字の構造、なりたちは左右対称性だ。漢語については別途書いて見たい。


中国人の思考は、くどく、粘り強いという。そしてそれは「対」ということを思考パターンにもつ民族だからだということを見つけたんだね、この人は。そしてそれはとても深い意味を持っているし、示唆に富む見解だろう。さてここではぼくなりに考えてきた中国について、ぴたっと合うことば、「対の思想」。これについて、探求していきたいと思っています。



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