2016年6月4日土曜日

(番外編) 哈金:英語への亡命


番外編です。
A good fall (邦題『素晴らしい堕落』)という短編集を読んで以来、Ha Jinの作品を読み継いでいて、それはかれが書く英語が平易で辞書なしで読めるようになってるからというのと、もちろん中国の実情みたいなものが正直に書かれていて(特にWaiting, 邦題『待ち暮らし』)、興味ぐんぐんなのです。かれは普通の中国人でアメリカの大学でアメリカ文学を学んでいたときに母国で天安門事件が起こり、中国に戻らないという決断をしたそうです。そして中国語ではなく、英語で作品を書き始める。母国語以外の言語で書くという決断はそうとうの覚悟が必要だったことと想像します。

以下は、ニューヨークタイムズに寄稿した短いエッセイ。タイトルはExiled to English。英語への亡命。亡命先は、国ではなく言語でもいいのです。

***

I WAS in the People’s Liberation Army in the 1970s, and we soldiers had always been instructed that our principal task was to serve and protect the people. So when the Chinese military turned on the students in Tiananmen Square, it shocked me so much that for weeks I was in a daze.

ぼくは1970年代に人民解放軍にいました。そしてぼくたち兵士はみな、自分たちの主な任務は人民に奉仕し、人民を保護することだと教えられていました。だから、天安門広場で中国軍が学生を攻撃したとき、ぼくはショックのあまり数週間は何も信じられませんでした。


At the time, I was in the United States, finishing a dissertation in American literature. My plan was to go back to China once it was done. I had a teaching job waiting for me at Shandong University.
その事件が起きた時は、ぼくはアメリカでアメリカ文学の学位論文を仕上げようとしていました。それが終わったら中国に戻るつもりでした。山東大学で教えることになっていたのです。

After the crackdown, some friends assured me that the Communist Party would admit its mistake within a year. I couldn’t see why they were so optimistic. I also thought it would be foolish to wait passively for historical change. I had to find my own existence, separate from the state power in China.
その事件のあと、共産党は1年もしないうちに誤りを認めるさ、という友達もいましたが、ぼくはかれらがそれほど楽観的に考えられることが理解できませんでした。とはいえ、歴史が変化するのを受動的に待つこともまた、ばかげているとも思いました。中国の国家権力から離れたところで自分の存在を確立させなければなりませんでした。


That was when I started to think about staying in America and writing exclusively in English, even if China was my only subject, even if Chinese was my native tongue. It took me almost a year to decide to follow the road of Conrad and Nabokov and write in a language that was not my own. I knew I might fail. I was also aware that I was forgoing an opportunity: the Chinese language had been so polluted by revolutionary movements and political jargon that there was great room for improvement.
それがぼくがアメリカに残り、英語でのみ書くことを始めたきっかけでした。たとえ中国がぼくの唯一の主題であっても、そして自分の母国語が中国語であったとしてもです。コンラッドやナボコフが歩んだ道に従い、母国語以外の言語で書くと決断するのに1年ほどかかりました。失敗するかもしれないということは知っていました。でもまた、可能性から背をそむけることでもありました。中国語は革命の過程と政治的専門用語で非常に汚染されてしまっていて、改善の余地は非常に大きかったからです。


Yet if I wrote in Chinese, my audience would be in China and I would therefore have to publish there and be at the mercy of its censorship. To preserve the integrity of my work, I had no choice but to write in English.
たとえぼくが中国語で書いても、読者は中国にいたとすると、その地で出版しなければならず、そうすると校閲が入ります。自分の仕事の誠実さを保つためには、英語で書く以外なかったのです。

To some Chinese, my choice of English is a kind of betrayal. But loyalty is a two-way street. I feel I have been betrayed by China, which has suppressed its people and made artistic freedom unavailable. I have tried to write honestly about China and preserve its real history. As a result, most of my work cannot be published in China.
英語を選んだということを一種の裏切りだと考える人もいました。でも忠誠心というのは一方通行ではありません。人々を抑圧し、自由な芸術活動を不可能にした中国にこそ、ぼくは裏切られたと感じたのです。中国について正直に書いて、本当の歴史を残そうと努めてきました。結果として、ほとんどの作品は中国では出版されていません。

I cannot leave behind June 4, 1989, the day that set me on this solitary path. The memory of the bloodshed still rankles, and working in this language has been a struggle. But I remind myself that both Conrad and Nabokov suffered intensely for choosing English — and that literature can transcend language. If my work is good and significant, it should be valuable to the Chinese.
1989年6月4日、ぼくに孤独な道を歩むべく定めた日、を忘れることはありません。流血の記憶はいまだ生々しく、この言語で仕事をすることにいまだ四苦八苦しています。でもコンラッドもナボコフも苦渋の決断として英語を選んだということを思い出すようにしています。もしぼくの仕事がよいものであり、意義をもつとするならば、中国人にとって価値のあることであるはずです。

Ha Jin is the author of “A Free Life” and “Waiting.”
ハ・ジンは、『自由生活』、『待ち暮らし』の著者です。


http://www.nytimes.com/2009/05/31/opinion/31hajin.html?_r=2
(戦車を止めた一人の男の写真に“心有所动”——心が揺れる)



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