2014年12月28日日曜日

余華(Yú Huá) 『ほんとうの中国の話をしよう』

余華については、あらためて言うまでもない、ほんものの作家、現代中国を代表する作家の一人だということに異論はありません。徹頭徹尾「非人間的な」現実を直視し、それでも生きることに疑問を持たない、ほんとうの人間らしさを語る、こころ暖かいヒューマニズムの人だと思います。(初期の作品はそうでもないですけど)

「物語」で「一人当たりの中国」を語る

かれはほんものの作家だから、何を語るにしても物語で語ってしまう人だということをこの本は証明しています。邦訳は『ほんとうの中国の話をしよう』となっていて、真っ赤な表紙にどでかい白抜きの明朝体が鎮座しているのでちょっと身構えてしまうわけですが、中身は余華があれこれ自分が見聞した物語を10個の語彙から連想するままに気ままに語る、そんなスタンスです。

余華は、来日する時も普段はいているサンダルをつっかけてくるような気取らない人だと聞いています。

中国のことは中国人が語るのを、とりあえずは聞いておくといいと思います。著者はべつに「これこそが現実だ」とまくし立てるつもりは毛頭なく、かれがもっと興味を持っていることは現実から派生する幾多の物語です。そこには事実と物語の境界線が危うくなる瞬間がたくさんあります。まさかそんなことはないだろう、と思いながら読みすすめ、でも、中国だったらそんなことが起こっても不思議ではないのかもしれないな。と妙に納得してしまったり。こういう本は、50をこえた円熟した作家だからこそ書ける話です。

この本を読むことで、巨大で途方もない「中国」(現代中国)を、「一人当たりの中国」として感じられるはずです。というのも、中国の話をするといいながら、客観的な歴史の記述や数字の列挙に終始するのではない、訳者もあとがきで書いているように、「一種の文芸作品」と化している観があり、そこには無数の印象的な物語が満ち満ちているからです。そういう意味で、得がたい本だといえます。

激動の歴史、価値観が一夜にして逆転する。強かったものがもっとも弱いものになり、弱かったものが正義を掲げる強者に様変わりする。そうした奇妙な世界は、突然そこにあるようになる。作家はそうした時代を、『活きる』の富貴一家のように、実地に体験してきたのでした。

いや、ほんとうに面白い本です。中国に関心がある人はまずこの本を読んで欲しいと思いました。

ひとつだけ、引用します。作家が小学生だった頃の話。

そのころ、私がいちばん羨ましく思ったのは、十歳ほど年上の人たちだった。彼らは一九六六年十月に始まった紅衛兵の全国「経験交流」に間に合った。当時は学校が革命のため授業停止となり、紅衛兵は文化大革命の経験を持ち寄って相互交流を図るという名目で、あちこちへ遠出した。全国各地に紅衛兵接待所ができて、経験交流の紅衛兵をもてなしてくれた。紅衛兵の食事と宿泊の面倒を見るし、交通費も支給する。さらに、必要な物資と輸送用の車両の手配もした。 
我々の町の赤衛兵は、ポケットに小銭しかなくても、公印を押した経験交流の紹介状さえ持っていれば、全国どこへでも行くことができた。汽車に乗るときも、旅館に泊まるときも、食事をするときも、費用はかからない。のちに自身の紅衛兵時代の経験交流を語るとき、彼らはみな顔を輝かせた。 
『ほんとうの中国の話をしよう』河出書房新社 pp.172-173

ここに出てくる、「経験交流」に行った、余華のお兄さん世代にあたる人が北島です。日本現代詩の最重要人物である吉増剛造も感嘆した詩を書く北京出身の詩人北島は、こう書いています。

文革初期の「大経験交流」の時から無賃乗車の旅が始まり、踵を接して押し寄せた「農山村定住運動」で都市や故郷を遠く離れることになり、行けば行くほど遠く離れ、「改革解放」の時代には、とうとう国境を越えてしまいました。
『北島詩集』「日本の読者へ」是永駿訳
どんな時代にも旅はあります。スマホの中で完結するほど世界は狭くない。





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